建設の歴史散歩+

1974~2005まで連載された建設の歴史散歩+エッセイ的な

第七回 玉川上水

 玉川上水 ~建設の歴史散歩~ 菊岡倶也 『建設業界』日本土木工業協会 1974年9月号の記事より 

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父の晩年に一緒に玉川上水を歩いたことがある。埃っぽい国道を歩いて目的物をカメラに収め、資料館へと。駅前の喫茶店でサンドイッチを食べたっけ。あれもこのときのように羽村駅だったのだろうか。

父の連載に雑文を書くこのシリーズ。400回なんてすぐと思ったけど、笑ってしまうくらいの亀ペース。気分転換になるか分からないけど、少し父のことを書いてみようかな。

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脱サラ後の父(40歳くらい)は原稿書きを続けながら、嘱託でゼネコンなどの社史作りや、大学の非常勤講師などあちこちで仕事をしていました。本郷の事務所に出勤すると、まず留守番電話にその日の行き先を吹き込むのです。父の居場所は家族も留守電を聞くまで分かりませんでした。

出先の業務を終えるとまた事務所に戻って書き物作業。夕飯は近くの弁当屋で調達か、仕事仲間と情報交換の歓談飲み。四畳半程度の事務所にはそこらじゅうに本が積み上がっていて、足の踏み場もなかったけれど(一度私は行ったことがある。父は本郷で三回転居しているが2度目の事務所には家族を呼ばなかった。怪しいと思っています笑)、居心地がいいと言って泊まる人もいたらしいです。

 

菊岡倶也回想録より。当時、大久保にあった小料理屋『くろがね』。いつかここへ若い仕事仲間を連れてく約束をしたんだよと、入院中の父はしきりに気にしていました。父が亡くなった後、森ビルの堀岡さん、雑誌コヨーテの編集者の方(お名前を失念してしまいました)、東京人副編集長の鈴木さん、画家の牧野さん、デザイナーの井上さんと母と私で行きました。皆さんお元気でしょうか。

 

父の帰宅は毎晩深夜近く。休日は家にいることもあったけど、父親や夫らしいことは何一つせず、365日ペンを握る男でありました。一度だけ小学校の父兄参観に来てくれたけど、仕事のお仲間と一緒に、しかも間違えて前のドアから入ってきて、あれは顔から火が出るほど恥ずかしかった。家の男仕事は同居の祖父(倶也の父)がやってくれていました。祖父は父とは真逆で、穏やかで寡黙な性格。私は父に一切懐かず、祖父に懐いていました。

自由に外を飛び回る父の姿に、家庭がある男とは思わなかった(父が結婚していると思わなかった)と言う人がいたくらい、そんな父でした~。続く。

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※添付画像には著作権が存在します。※表紙絵は牧野伊三夫さん(全体像がup出来ず部分になっています)※田中良寿さん編の著作目録を活用しています※建設産業図書館の江口知秀さんに多謝申し上げます。