建設の歴史散歩+

1974~2005まで連載された建設の歴史散歩+エッセイ的な

第12回 元禄時代の仇花的請負人たちⅡ

第12回 元禄時代の仇花的請負人たちⅡ


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~建設の歴史散歩~菊岡倶也 『建設業界』日本土木工業協会 1975年3月号の記事より

(写真文字が不鮮明)

 

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師走!
と、し忘、れ。
今年もいろんなことがありました。年も取ったけど年は取るもの増やすもの。皺も増えるが要らないものもそげ落ちて(肉は落ちるな)だんだんと身軽になれるのが嬉しいな。

暮れは牧野伊三夫さんの個展へ行きました。この1年どんな思いでキャンバスに向かってらしたのだろうかと。黒い絵に命の営みが息づいていました。

牧野さんと父の共通項の雑誌の東京人。その東京人がひと月ほど前に近所のクラフトビアバーに取材に見えていました。たまたまカウンターで飲んでた私は以前に父が寄稿してたことをお伝えしてみたのです。すると名前を聞かれ、答えると即座に「建築の」とおっしゃる。20年も前のことなのにと驚きました。凡人とは訳が違う頭の整理箱なのでしょう。父は建築でなく建設分野の物書きでしたが、東京人の銀座の記事では建物のことを書いていて、絵は牧野さんでした。

〜余談ですが、先日私の女友達とたまたま東京人の話題になった。その昔、友人が本屋で東京人を立ち読みしていたところ、どうも自分のことを書いてるのじゃないかと思える記事がある。その内容は伏せますが、後日ほんとにそうだったと分かってびっくりしたそうです。私もびっくり。


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『眠り教団』牧野伊三夫さん 〜部分

父没後にお仲間の方が丁寧な追悼文集を作ってくださいました。牧野さんが当時寄せてくださった文章には楽しそうな汽車旅が。父のあの特徴的な甲高い笑い声が浮かんで来ます。のんびり汽車に揺られ旅。些細なことに笑って、これからの旅先にワクワクする。私にとって何より尊い景色です。そんな新年になることを。

最後になりましたが、浜離宮の建設産業図書館が開館20周年だそうで誠におめでとうございます。11月より図書館の展示コーナーに父のことや写真を紹介してくださっています。家族より誰より父のことを理解していらっしゃる展示内容です(図書館のホームページでも読めます)。新年のブログは建設産業図書館のことを書きたいと思います。もう20年近く経ったのですね。良い年をお迎えください。

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※添付画像には著作権が存在します。※表紙絵は牧野伊三夫さん(全体像がup出来ず部分になっています)※田中良寿さん編の著作目録を活用しています※建設産業図書館の江口知秀さんに多謝申し上げます。

第12回 元禄時代の仇花的請負人たちⅠ

元禄時代の仇花的請負人たちⅠ~建設の歴史散歩~菊岡倶也 『建設業界』日本土木工業協会 1975年2月号の記事より 

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仇花。調べたら咲いても身を結ばない花のことだそう。無駄花ともあり、そうなのか、と思う。無駄なところにこそ意味がある。その無駄を考えるのがいいんじゃないかって、ほんとにそう思っているのか、自分でも分からない。分かった気になってたけど、そっちでなく本当はこっちなんじゃないかって、考えると疲れてしまって、考えないように無駄に動き回っている。なんだ、仇花は私みたいなのを言うのじゃない。

 

仇花は身を結ばなくてもその時に確かに生きていたと。それを証明するミクロな粒があって、少しだけピンクで黒くて赤くて薄い青みがかってもいる。その粒も一瞬で消えるけれど。

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私の育った実家は都営住宅の小さな平屋。部屋という部屋に本が積まれていた。庭に置かれた書庫にも父の蔵書がびっしり。中には清水の次郎長の子供向け絵本や、ヤクザの隠語辞典なんてのがあって、何故このような本を?と思っていたが、土木関係の本だと今なら分かる。フリーメイソンのもかなりあった。

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※添付画像には著作権が存在します。※表紙絵は牧野伊三夫さん(全体像がup出来ず部分になっています)※田中良寿さん編の著作目録を活用しています ※建設産業図書館の江口知秀さんに多謝申し上げます。

 

 

第11回 土建信仰の初詣

土建信仰の初詣~建設の歴史散歩~菊岡倶也 『建設業界』日本土木工業協会 1975年1月号の記事より 

 

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お正月の回です。

父の連載の順番通りに私も書かなくとも良かったのです。だけど書きやすいテーマから選ぶと、小難しいテーマばかりが残ってしまいそうだし(たぶん3分の2以上…)書きにくいお題から何かを見つけるのも楽しいかなと思ったのでした。

しかしお正月。書いている今は10月になり猛暑をようやく通り過ぎたところてん。でもきっと今年も流行り行事を横目でやり過ごすうち、あっという間に正月なんだろうな。

 

今年の元旦。荒川土手から写したさいたま新都心📷父の好きだった風景。いかにも建設的。

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この回の冒頭には、不況よ去って欲しいとの願いが。今も同じ切なる声。だがこの文章から浮かぶ景色や人の顔は違って見える。

舗装のされていない砂利道で、鼻水を垂らして遊ぶ子供。お母さんは髪にパーマを当て、膝下丈のスカートで台所に立つ。年頃の娘は部屋に籠り、音楽を聴いている。大晦日に聴いたヒットソングが頭から離れない。理由のわからないことで悩んでいるうち老いぼれてしまうから。

友達と原宿あたりに出かけようかな。ポニーテールを結び、ペッグトップパンツに着替える。曇り空の窓からは健康な風が吹く。郵便のオートバイが聞こえて、年賀状を取りに飛び出す。

たぶんこの先にはもう見ることが出来ない光景。瀬戸際をいかに生きて終わるかの勝負。このゲームの中で迎える正月はどんなだろうか。優しく尊い正月であるに違いない。

 

※第16回日本レコード大賞。大賞は森進一の襟裳岬。最優秀新人賞が麻生よう子の逃避行。この歌好きでしたね~。作詞が千家和也、作曲が都倉俊一。

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※添付画像には著作権が存在します。※表紙絵は牧野伊三夫さん(全体像がup出来ず部分になっています)※田中良寿さん編の著作目録を活用しています ※建設産業図書館の江口知秀さんに多謝申し上げます。

 

第10回 初代清水喜助の故郷

初代清水喜助の故郷  ~建設の歴史散歩~菊岡倶也 『建設業界』日本土木工業協会 1974年12月号の記事より 

 

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この丘に私も立ったことがある。と思ったけど、本当にこの丘だったのかな?とにかく父が倒れた後、葬儀が済んでも用事が引けなくて、ひと月の間に実家と私の賃貸アパート、父の事務所の3箇所の引越しをした。自分が体調を崩していることにも気づかないほど。尋常じゃない疲れ方だったけど、渦中で麻痺していたのだろう。

なじぇに私は旅先に北陸の地を選んだんだろ。そうだ、おわら風の盆が見たかった。結局、祭り会場には行かなかったけど(疲れてた)。気力と好奇心のみで出発した一人旅は、余裕のヨっちゃんの字もなかったけれど、丘から見下ろす平野(散居村?)は、地平線まで見えるような広大な眺めであった。この回を読むと父も心丈夫に丘に登ったのではないこと分かるが、最後に『ここにきてよかった、と私はおもっていた』って。私もそんな感じだったんだろう。

 

駅から真っ平らの360度平野の視界の道(だったように思う)を真っ直ぐ丘に向かって歩いた。すれ違う人もいなかったように思う。途中で郵便屋さんか誰かに道を尋ねたような。父のようには私は怪しまれなかった。(父はなんというか見た目からして変わっていて、自転車で走っているだけでよく職務質問を受けていた笑。)

私のその北陸旅は、寒い季節に行ったとばかり思っていたけど、永平寺から黒部峡谷へ行く富山駅の乗り換えが暑くてしんどくて、黒薙温泉の野天風呂にはアブが出たし、あれは夏だったんだ。混浴だったので誰か来やしないか、アブにもビクビク、生きた心地がしなかったっけ。

鵜飼も見た。何処かの河原で花火も見たな。ということは3泊くらいしたんだろうか。灯篭流しの河原では幽霊を見たけど、あれは絶対私を呼びに来てたはず。完全に片足突っ込んでた。私は1度あの世へ行って助かった人生と思ってるので、報いて生きねばならんけど、今ががやっとです。

どろろ〜失礼しました~

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追記

※記憶では駅近くだったかに佐藤工業の社屋があった。佐藤工業からは毎年チューリップの球根が送られてきていて、父が亡くなった後の春に、もうチューリップは届かないねと母が寂しがっていたのを思い出す。

 

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※添付画像には著作権が存在します。※表紙絵は牧野伊三夫さん(全体像がup出来ず部分になっています)※田中良寿さん編の著作目録を活用しています ※建設産業図書館の江口知秀さんに多謝申し上げます。

 

 

第九回 江戸の人足寄場 佃島・石川島のあたり

江戸の人足寄場 ~建設の歴史散歩~ 菊岡倶也 『建設業界』日本土木工業協会 1974年11月号の記事より 

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罪とは何ぞや。何かと不条理な世の中です。罪は何処にあるのか。何処からやってきて肩に止まるのか。考えたら先に進まなくなり、昨夜独り言のように、罪ってなんだろうと呟いたら、隣で夫が、罪は傍観者だよって。

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囚人仕事と聞いて思い付くのが網走刑務所の木工家具です。昔々に小学校の校庭に展示即売が来ていたことがありました。玄人はだしの職人芸は、家具というより一級の美術工芸品。普通の家庭には収まりきらない(価格帯も)和柄なゴージャス仕様に、見る人は皆息を飲んでいたっけ。彫り物…が好きなんだなと小学生の私が思ったか否かは内緒。

先日友人から貰ったお土産。コケシも立派な工芸品。郷土の特徴がgood👍

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始まりは受刑者の更生を目的としていたのが、いつしか社会の不平分子狩りになり、果ては強制労働になったのではとの疑念で結ばれるこの回。

舞台となる石川島は現在の佃島ウォーターフロントに浮かぶ江戸情緒を残す小島に、昔そうして働く人夫の姿があったとは。不平分子。私もその場にいたら、力のない女は何に駆り出されるんだろう。働きすぎて命を落とす男もいただろう。

川面に小舟が浮かび、伝統の祭りで賑わう神社。佃煮屋と駄菓子屋の風景の奥に人型の陽炎やチラつく狐火が見えるような気がして。

父の取材から浮かんだ疑念が、私にも学ぶ機会を与えた。罪なき罪人の鎮魂になればと祈ります。

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※添付画像には著作権が存在します。※表紙絵は牧野伊三夫さん(全体像がup出来ず部分になっています)※田中良寿さん編の著作目録を活用しています ※建設産業図書館の江口知秀さんに多謝申し上げます。

 

第八回 玉川庄右衛門・清右衛門の墓

玉川庄右衛門・清右衛門の墓 ~建設の歴史散歩~ 菊岡倶也 『建設業界』日本土木工業協会 1974年10月号の記事より 

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建設の歴史を追う旅。玉川上水工事。工事オタでもない限り、婦女子が興味を持つ内容ではない。と思われましたが、日本の建設産業に請負業が登場したところに目を付けた、そこに男のロマンを見た思いがして、この長い連載に少し深く入り込んだ自分に気づいた次第。

そんな蒸し暑い秋。話を変えます(ワガママ)。この回で父が訪ねた小金井市と私は切ってもキレない、ではなく切れた体の関係にありました。父が亡くなってすぐ、母と私と夫は小金井公園のすぐヨコの探偵事務所みたいなコーポで同居を始めます。同時に私の持病が悪化して手術することに。聖ヨハネ桜町病院。上林暁の小説にもなった病院です。文学ミーハー心をくすぐられ、即座に切ってもらおーじゃないのと、図書館で借りた川上弘美の本を20冊ほど抱えて、秋風が吹く朝に入院したのでした。そして斬られました候。

 

探偵事務所の屋上テラス笑

 

ムサコには1年ちょっとしか住みませんでしたが、駅前に『大黒屋』という風情ある飲み屋が、坂の途中には新鮮な魚屋があり、なかなか良いところでした。

今晩飲んで明日は仕事がキャッチフレーズの大黒屋。

 

父が亡くなってしばらくして、父のことを本にしたいとのお話が。父が偉い人とかでは全くないです。暗く路頭に迷っている現代の若者に勇気と光を与えるべく、建築少年として(父の分野は建設ですが)生きた父の仕事を紹介したいとのことでした。

その本は書かれることなく終わりましたが、作家さんと画家さんとその大黒屋で飲んだ時に、その作家さんが、本はお嬢さんが書きゃいいんだよと言ったことを思い出しました。建設業に携わった男の話なんて全然わかんねーよ、とその時は思いましたが、長く生きると少し分かってくるものですね。不思議。

いつかの回に続く鴨。

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第七回 玉川上水

 玉川上水 ~建設の歴史散歩~ 菊岡倶也 『建設業界』日本土木工業協会 1974年9月号の記事より 

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父の晩年に一緒に玉川上水を歩いたことがある。埃っぽい国道を歩いて目的物をカメラに収め、資料館へと。駅前の喫茶店でサンドイッチを食べたっけ。あれもこのときのように羽村駅だったのだろうか。

父の連載に雑文を書くこのシリーズ。400回なんてすぐと思ったけど、笑ってしまうくらいの亀ペース。気分転換になるか分からないけど、少し父のことを書いてみようかな。

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脱サラ後の父(40歳くらい)は原稿書きを続けながら、嘱託でゼネコンなどの社史作りや、大学の非常勤講師などあちこちで仕事をしていました。本郷の事務所に出勤すると、まず留守番電話にその日の行き先を吹き込むのです。父の居場所は家族も留守電を聞くまで分かりませんでした。

出先の業務を終えるとまた事務所に戻って書き物作業。夕飯は近くの弁当屋で調達か、仕事仲間と情報交換の歓談飲み。四畳半程度の事務所にはそこらじゅうに本が積み上がっていて、足の踏み場もなかったけれど(一度私は行ったことがある。父は本郷で三回転居しているが2度目の事務所には家族を呼ばなかった。怪しいと思っています笑)、居心地がいいと言って泊まる人もいたらしいです。

 

菊岡倶也回想録より。当時、大久保にあった小料理屋『くろがね』。いつかここへ若い仕事仲間を連れてく約束をしたんだよと、入院中の父はしきりに気にしていました。父が亡くなった後、森ビルの堀岡さん、雑誌コヨーテの編集者の方(お名前を失念してしまいました)、東京人副編集長の鈴木さん、画家の牧野さん、デザイナーの井上さんと母と私で行きました。皆さんお元気でしょうか。

 

父の帰宅は毎晩深夜近く。休日は家にいることもあったけど、父親や夫らしいことは何一つせず、365日ペンを握る男でありました。一度だけ小学校の父兄参観に来てくれたけど、仕事のお仲間と一緒に、しかも間違えて前のドアから入ってきて、あれは顔から火が出るほど恥ずかしかった。家の男仕事は同居の祖父(倶也の父)がやってくれていました。祖父は父とは真逆で、穏やかで寡黙な性格。私は父に一切懐かず、祖父に懐いていました。

自由に外を飛び回る父の姿に、家庭がある男とは思わなかった(父が結婚していると思わなかった)と言う人がいたくらい、そんな父でした~。続く。

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※添付画像には著作権が存在します。※表紙絵は牧野伊三夫さん(全体像がup出来ず部分になっています)※田中良寿さん編の著作目録を活用しています※建設産業図書館の江口知秀さんに多謝申し上げます。